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2011年11月20日08:00
内野・平口の歴史考察(8)≫
カテゴリー │遠州山辺の道の歴史
寺院(前編)
正寿院・内野・臨済宗方広寺派・永徳三年(1383年)開創・室町時代
竜泉院・内野・臨済宗方広寺派・天承六年(1578年)開創・安土桃山時代
福応寺・内野・臨済宗方広寺派・慶長六年(1601年)開創・江戸時代
真光寺・内野・臨済宗方広寺派・慶長十五年(1610年)開創・江戸時代
西福寺・平口・臨済宗方広寺派・至徳二年(1385年)開創・室町時代
徳生寺・平口・臨済宗方広寺派・天正一年(1573年)開創・安土桃山時代
妙蓮寺・平口・日蓮宗・元禄八年(1695年)以前開創・江戸時代
不動寺・平口・黄檗宗・延宝八年(1680年)開創・江戸時代
小松の、光正寺・紹隆寺の二寺と、平成22年に廃寺になった内野の竜福寺も、臨済宗方広寺派である。臨済宗それも方広寺派の寺院が多いのは、直ぐ近くの引佐町奥山の大本山方広寺の影響であろう。日蓮宗の妙蓮寺、黄檗宗の不動寺以外は、全て同じ宗派であり、寺院が生活に密接していた中世では、まとまりの良い部落で、村役は楽だったろうと想像できる。
平口の西福寺境内に、弘法大使が、相模の国江ノ島で、護摩一万座修行をされた時、その灰で創られた弁財天像三体の内の一体と言う伝説の残る弁財天像が祀られている。

日本三弁天とは、普通、江ノ島・竹生島・厳島の弁財天をさすが、このうちの何処が抜けて、西福寺が入るのかは分からない。又、何故此処にあるのかも不明である。毎年、四月の第一土曜日に例大祭が行われ、大勢の善男善女が、技芸上達・学業成就を願って、お参りに訪れる。
内野の正寿院には、一字一石塔がある。

大乗経の経文を一字ずつ一つの石に書き込んだものを納めた塔で、手を合わせ念ずることで、大乗経を読んだと同じ功徳が得られるという有り難いものである。この塔の側面に、薩訶世界大日本国東海道遠江州長上郡内野郷長寿院と記されている。薩訶は、薩摩の薩と摩の勘違いで、摩訶であろうが、大日本国の大の字は、建立が鎖国時代の安永八年(1780)のこと、何に向かって大とつける必要があったのか、いぶかしいことだ。(山内)
正寿院・内野・臨済宗方広寺派・永徳三年(1383年)開創・室町時代
竜泉院・内野・臨済宗方広寺派・天承六年(1578年)開創・安土桃山時代
福応寺・内野・臨済宗方広寺派・慶長六年(1601年)開創・江戸時代
真光寺・内野・臨済宗方広寺派・慶長十五年(1610年)開創・江戸時代
西福寺・平口・臨済宗方広寺派・至徳二年(1385年)開創・室町時代
徳生寺・平口・臨済宗方広寺派・天正一年(1573年)開創・安土桃山時代
妙蓮寺・平口・日蓮宗・元禄八年(1695年)以前開創・江戸時代
不動寺・平口・黄檗宗・延宝八年(1680年)開創・江戸時代
小松の、光正寺・紹隆寺の二寺と、平成22年に廃寺になった内野の竜福寺も、臨済宗方広寺派である。臨済宗それも方広寺派の寺院が多いのは、直ぐ近くの引佐町奥山の大本山方広寺の影響であろう。日蓮宗の妙蓮寺、黄檗宗の不動寺以外は、全て同じ宗派であり、寺院が生活に密接していた中世では、まとまりの良い部落で、村役は楽だったろうと想像できる。
平口の西福寺境内に、弘法大使が、相模の国江ノ島で、護摩一万座修行をされた時、その灰で創られた弁財天像三体の内の一体と言う伝説の残る弁財天像が祀られている。
日本三弁天とは、普通、江ノ島・竹生島・厳島の弁財天をさすが、このうちの何処が抜けて、西福寺が入るのかは分からない。又、何故此処にあるのかも不明である。毎年、四月の第一土曜日に例大祭が行われ、大勢の善男善女が、技芸上達・学業成就を願って、お参りに訪れる。
内野の正寿院には、一字一石塔がある。
大乗経の経文を一字ずつ一つの石に書き込んだものを納めた塔で、手を合わせ念ずることで、大乗経を読んだと同じ功徳が得られるという有り難いものである。この塔の側面に、薩訶世界大日本国東海道遠江州長上郡内野郷長寿院と記されている。薩訶は、薩摩の薩と摩の勘違いで、摩訶であろうが、大日本国の大の字は、建立が鎖国時代の安永八年(1780)のこと、何に向かって大とつける必要があったのか、いぶかしいことだ。(山内)