小野口の伝承(6)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

山林遺跡

山林地区の御陣屋川と妙蓮寺の間に、山林遺跡があります。今は標識も何も有りませんが、昭和二十八年頃、排水路工事が行われたとき、大量の弥生式土器が、出土しました。

昭和五十九年七月、浜名高校史学部が、発掘調査し、壷・高杯などの土器の破片を見つけました。出土品から、弥生時代全般に居住したと見られています。

きらりタウン開発工事で、平口高架橋が作られましたが、このときも土器片が出たそうです。(山内)



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小野口の伝承(5)

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舟岡山の変遷

内野と半田の境にある舟岡山は、今は崩されて、工場や店舗が建って居りますが、以前は、岸壁から海に乗り出した船のように、三方原台地から、平地部に向かって聳えていたと言います。

弥生時代(2300年前~3世紀頃)の複数の住居跡と、弥生土器などが発見されていて、当時の集落の跡と思われます。この頃は、稲作が始まっており、住まいも低地が多かったのですが、なぜか、ここでは高地を住居として居ります。他部族との抗争や、野生動物の被害を避けるなどの理由が考えられますが、定かな事はわかりません。

内野古墳群と半田古墳群の中間に当たり、古墳中後期の時代の古墳が、複数発見されました。

平安時代(781年~1192年)初期、坂上田村麻呂が、東北地方鎮圧のため軍勢を率いてこの地に来たとき、天竜川が荒れ狂っており、渡る事が出来ず、やむなく、舟岡山に陣を敷きました。ある日、一人の女が「お世話をさせてください」と現れて、何時しか懇ろになり、身ごもりました。
「好いと言うまで、中を見ないで下さい」言いおいて、女は産屋にこもりました。待ちきれなくなった田村麻呂が、窓から覗いて見ると、大きな蛇が、とぐろを巻いて、赤子をあやしていました。
「磐田の海の竜王の娘です。正体を知られてはおそばに居られません」と、一個の玉を置いて姿を消しました。
という、田村麻呂伝説が、天竜区から、浜北区・東区にかけて伝わっており、椎が脇神社・岩水寺・有玉神社・白華寺などが、それぞれここが舞台と主張していますが、これは、古事記などの、幾つかの物語をあわせた話と想像出来ます。

江戸時代、金指にある黄檗宗の寺院初山宝林寺の住職法源が、自分の隠居寺として、田村麻呂伝説の伝わるこの地を選び、大智寺を建てました。明治維新で廃寺となり、いまは、法源和尚の爪・髪を納めた法源堂だけが残されています。


大東亜戦争末期、米軍上陸に備えて、陸軍がここにトーチカを作りました。コンクリートの残骸が、残って居ります。

戦後、バブル景気の頃、山は崩されて、桜井製作所が建ち、切り開かれた部分は道路(浜松環状線)となり、自動車が激しく往来し、又一方には、家電量販店エイデンも建ち、「舟岡山跡」としるされた木柱が立って、名残を留めているだけです。(山内)





 

小野口の伝承(4)

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埴輪

内野古墳群の内の、辺田平古墳群から、鉄製の刀、鏃、勾玉、土器などに混じって、数多くの埴輪が出土しました。
特に一号墳からは、筒型埴輪だけでなく、人・馬・鳥などの象形埴輪が見付かりました。(山内)





 

小野口の伝承(3)

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内野古墳群

昭和四十年ころ、内野台が、浜名ニュータウンとして開発される前には、この地区に、神明社上・権現平山・観音つぶら・辺田平・二本ケ谷と呼ばれる古墳群があり、百基以上の古墳が有ったといわれます。

その多くは、開発工事で破壊されましたが、浜松市内で二番めに旧くて、二番目に大きい赤門上前方後円墳と、円墳としては市内三番目に大きい稲荷山古墳・石室が残されている可能性のある山の神古墳及び、県内ではここだけの石塚二本ケ谷積み石塚群が、保存されています。(山内)

平成二十五年復元した積み石塚(縮尺2分1)