ルートチェックVOL.1

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こんにちは、遠州山辺の道の会 広報担当の酒出です。

本日、遠鉄「西ヶ崎駅」に集合した16名の会員が
天浜線「宮口駅」に向かって出発しました。

今回の目的は、ルートの始点を「西ヶ崎駅」にする
と、いった発案から、試走を含めたルートチェックです。

西ヶ崎駅から方広寺道を西へ・・・ 東区を1Km進むと
浜北区小松小島に入り、馬込川を渡り、「真光寺」~
「札木場」~「内野神明宮」 ここまでが新ルートです。

暑さが若干和らいだ天候でしたが、アスファルトの道は
熱く 神社や寺院の木陰が有難い道のりでした。

コースの詳細はまた後日報告致します。
9:00出発~11:00サンストリート到着(昼食)12:00出発
~天浜線宮口駅16:00到着解散 12Kmの行程でした。
次回は、9月28日(日)宮口駅9:00集合出発~西鹿島駅

もう少し涼しくなりましたなら 是非皆さんも「遠州山辺の
道」を歩いてみませんか?



 

小野口の伝承 (22)

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袴田家の長屋門

小松村の庄屋を勤めていた袴田家に伝わる、文久三年(1863年)三月十七日付けの文書に、陣屋(気賀)が遠くて、領内巡視に不便である。

次回からは、お前の家を、役所として使うことにする。
座敷を整えろ。
長屋門も造れ。
代金として、金二百匹を下げ渡す。

と、記されています。

気賀近藤家から袴田家当主に当てた文書です。
こうして長屋門が造られましたが、二百匹とは二千文で、大工の日当が二百文でしたから、大不足です。 (山内)





 

小野口の伝承 (21)

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悪人地蔵

徳川時代の終わりころ、金指に内山某というものが居りました。
この男は、生来残忍で、強盗・強姦・火付けなど悪逆残忍の限りを尽くし、二十数人の命を奪い、捕らえられました。

明日は処刑と言う前夜、男の夢枕に観音様が立ち、人の命の大切さを懇々と諭されました。

己の犯した罪の重さに気付いた男は、役人に「人の役に立ちたい。
俺を、地蔵として祀ってくれ、難病に悩む人の力になろう。
茶碗一杯の茶を手向けてくれたら、どんな難病も治して見せる」と涙を流して頼みました。

今、内野台二丁目から豊川稲荷に降りてゆく途中にある祠が、この男を祀った悪人地蔵で、お参りし病の治った人も大勢居て、難病平癒の願いを込めて一碗の茶を献ずる人が後を絶ちません。 (山内)



 

小野口の伝承 (20)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

玉尾稲荷神社


陣屋の敷地の一番高い所に、玉王稲荷が有ったといわれます。
近藤家がさって、内野上の人たちが荒れ果てていた物を、明治六年神社庁に
申請し、許可を得て正式な玉尾稲荷として御祀りするようになりました。

隣の祠は、腰から下の病を治す伊豆竜王大明神です。
腰から下の病に冒されたとき、病平癒を願うとご利益があるとされ、
治癒した人はお礼に旗幟を奉納します。 (山内)





 

小野口の伝承 (19)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

小用町通り

三千石とは言え、陣屋が出来れば、人も物も集まります。
陣屋の前の通りは、「大きい用は足せないが、小さい用なら足せる道」
小用町通りと呼ばれ、料理屋や伝馬宿や店も出来て、浜松から船便も着いたといわれます。

明治二十三年火災に会い、立ち直れないままになりました。 (山内)






 

小野口の伝承 (18)

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内野陣屋

三ヶ日町大谷に有った大谷近藤家が、天保十三年(1842年)内野に、
陣屋を移しました。
明治維新(1868年)までの短い間でしたが、浜北区内では、一箇所だけの行政を行った場所です。

今、陣屋の跡は、竹やぶ、雑木林になって、雑木や雑草に覆われて、所在地を示す説明板だけが、昔を偲ぶよすがに成って居ります。
明治維新の後、陣屋の建物は、内野学校として使われましたが、台風で壊れ廃却されました。
年貢米を納める郷蔵や、近藤家の菩提寺、万福寺も建てられたと言いますが、今は壊されて残っておりません。
陣屋の建物は、明治維新後、内野学校の校舎として使われていましたが、
明治二十二年に、暴風で壊れました。

陣屋跡には、説明看板が立っていますが、敷地跡は、雑草・雑木と竹が生い茂っていて入れません。
旧陣屋の表門と、御陣屋橋の欄干は、内野の民家に保管されています。  
(山内)