【宮口の歴史】宮口と鉄道

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

  

宮口には、天竜浜名湖鉄道の宮口駅があります。

この天竜浜名湖鉄道の前身は国鉄二俣線です。二俣線は、東海道本線が戦時の敵の攻撃により浜名湖の今切れで不通になることを想定して、その迂回路線として建設されました。昭和10年4月17日に掛川~遠江森間が開通したのを皮切りに、東西方向から工事が進められて順次開通し、昭和15年6月1日に全線開通しました。

路線の中ほどに位置する宮口駅は、この全線開通と同時に開業しており、すでに70年以上の歴史を刻んでいることになります。戦時中には二俣線で戦車等も輸送されたことがあったようですが、現在では地域住民の貴重な交通機関となっています。

そのような天竜浜名湖鉄道ですが、平成10年には天竜二俣駅の転車台など5件が、平成23年1月には全路線の主な駅舎・橋梁など31件が、国の登録有形文化財になりました。全線に及ぶ多数の施設を一括登録した鉄道は鳥取県の「若桜鉄道」、群馬・栃木県の「わたらせ渓谷鉄道」に続いて、天竜浜名湖鉄道が三例目です。
なお、登録された駅のうち、駅舎、待合室、上下プラットホームの関係施設が全部指定されたのは宮口駅だけです。





 

内野陣屋跡 説明看板設置

カテゴリー │道しるべ

  

7月22日 有志が「内野陣屋跡」に説明看板の設置を行った。
竹の根が道路までせり出した場所であり、穴掘り作業に
時間を要した。 

夏休みに 地元の子供たちが「郷土研究」学習するのに
間に合わせる形となったが、以前の看板倒壊から数年
遠州山辺の道の会では、今後もこうした活動を続けて行きたい。


 

【宮口の歴史】宮口と庚申信仰

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

前回の庚申寺の紹介文の中で「庚申信仰」という言葉がでてきましたが、今回はこの庚申信仰についての記事になります。

庚申信仰についてはいろいろと解説があるのですが、ここでは庚申寺のホームページに掲載されている解説を引用させてもらいます。(青字部分)

庚申の信仰とは、もともと中国の道教からできた思想です。
60日ごとにめぐってくる庚申(かのえさる)の日には、人間の頭とお腹、足先にいる三尸(さんし)の虫が口から抜け出して、帝釈天(たいしゃくてん)にその人の60日間の罪科を告げてしまいます。帝釈天は人間の寿命を決める力がありますから、その人の命が縮められてしまうことになります。そこで、庚申の日の夜は眠らずに身を慎んでいなければならないことになります。つまり、延命長寿の思想といえるのです。


以上のようないわれがあるのですが、一人で眠らずに夜を過ごすことが難しいので、会場を決めて集団で過ごすようになりました。
近世入ると、近隣の人たちが集まって、眠らないように夜通し飲み食いをするという風習が広がりました。この集まりを「庚申講」といいます。

このような庚申信仰の中心地が庚申寺です。その門前町として栄えた宮口では、昔から庚申講が各地区で開催されており、それは現在においても受け継がれています。
さすがに夜通し飲み食いをするということはなくなりつつあるようですが、庚申の日に近隣住民が集まって青面金剛にお祈りをするということは行われています。



 

【宮口の歴史】宮口とお寺

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

現在、浜北区内では51のお寺がありますが、そのうち宮口地区には8つのお寺があります。

庚申寺、保福寺、大覚寺、陽泰院、報恩寺、興覚寺、常光院、恩光寺の8つであり、それぞれに歴史を有する由緒正しいお寺ばかりです。
すべてを紹介するのはなかなか大変なので、この中で最も歴史が古い庚申寺について触れたいと思います。

庚申寺は「金剛山庚申寺」といい、臨済宗方広寺派の寺院です。神亀二年(725年)現在地の北西200メートルに観音山光明寺として開山。明徳元年(1390年)に現在地に移転し、臨済宗に改宗して金剛山庚申寺となりました。
寺名の「庚申」が示すように、宮口地区をはじめとした庚申信仰の中心地となりました。
庚申寺所蔵の古文書『庚申尊天略縁起』によると、特に庚申信仰が盛んであった江戸時代においては、大阪の「天王寺」(四天王寺)と共に「攝遠(攝州と遠州)の二庚申」として隆盛を極めたそうです。

現在でも庚申寺の門前においては当時の門前町の面影が感じられます。



 

【宮口の歴史】宮口と遺跡

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

宮口は、温暖な気候と災害の少ない地形に恵まれています。数多くの住居跡、窯跡、古墳等の遺跡があることからも、古くから人が住み続けてきた住みやすい土地であることがわかります。今回はそのような遺跡の中から代表的なものを紹介します。

宮口地区で最も古い遺跡としては「梔池遺跡(くちなしいけいせき)」があります。この遺跡からは浜北区で唯一、旧石器時代の石器が発見されています。
この他に、この遺跡からは縄文時代中期の竪穴式住居跡や、黒耀石製のやじり、石さじ等の石器が見つかっています。

また、宮口地区では、平安~鎌倉時代の三十基余の窯跡が見つかっています。その中の一つである市指定史跡「大屋敷5号窯跡」は覆屋の中に保存されています。ここで焼かれたと考えられている灰釉陶器が、福島県いわき市の小茶円遺跡で発掘されており、現在もいわき市考古資料館に保管されています。
宮口では焼き物に適した粘土が産出されたため、窯業が行われていたと考えられます。
なお、かつて焼き物用の土を掘った場所と伝えられている「土取(つっとり)」という字名が、現在も残っています。



 

「遠州山辺の道講演会」レポート

カテゴリー │ダイアリー

6月30日、内野・平口グループ勉強会の拡大版として「遠州山辺の道講演会」が開催されました。

講師は浜松市文化財課の鈴木京太郎氏で、『遠州山辺の道と道沿いの文化財』と題して約2時間語って頂きました。



鈴木氏は前任の浜北区まちづくり推進課時代に「遠州山辺の道」整備計画を推進され、また現在は文化財課で埋蔵文化財や記念物を担当されており、遠州山辺の道整備の経緯や周辺の歴史についてわかりやすく解説して頂けました。

また二本ヶ谷積石塚群の被葬者についての考察や新東名の工事前に発見された遠州最古の瓦窯跡である根堅の篠場(しのんば)瓦窯跡の移設計画といったかなり濃いお話も伺うことができました。

内野・平口グループでは、今後もこうした講演会・研究発表会を開催していく予定です。