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金刀比羅神社(その1)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

金刀比羅神社(その1)金刀比羅神社は、高根山の東側にあり、境内社含め18社、延べ39柱の御祭神が祀られています。キラキラ

金刀比羅神社の起源は、延宝5年(1677)に大宝寺が現在地に移転してきたときに、大宝寺の守護神として「金毘羅大権現(神王)」をお祀りしたことに始まります。注目
その100年後、大宝寺が火災に遭ったときに、金毘羅大権現も焼失しましたが、しばらくして裏山に社殿を建立して遷座しました。
現在の金刀比羅神社の手洗場付近であったと言われています。おすまし
その後天保13年(1842)社殿の北側に立派な本殿を建立し遷座されました。
現在の祓殿です。おすまし
そして安政4年(1857)村人達の強い要望で、金毘羅大権現は大宝寺から分離して尾野村の氏神様となりました。ニコニコ

ここで話は変わります。注目 
大宝寺に金毘羅大権現が祀られるより80数年前で、豊臣秀吉の時代の文禄元年(1592)のことです。おすまし
ご神札によりますと、その頃の尾野村の門閥であった「長畑一門」と「野中一門」が共に「金山大明神」を祀りました。
祀った場所ははっきりしませんが現在の金刀比羅神社の境内地か、その付近と思われます。ひよこ

これは私見ですが、現在の金刀比羅神社の手洗場の南面に大小の巨石が露出した岩場があります。
いまは樹木が茂っていて、場所柄だけにあまりめだちませんが、高根山の磐座が屹立して男性的なのに対して、此の岩場は小型で、おとなしく女性的な感じです。カエル
この為当時の尾野村の人達は、高根神社になぞらえて、この岩場の付近に、社殿を建立して金山大明神をお祀りししたのではないでしょうか。注目
そして、其の後 その脇へ金毘羅大権現を大宝寺から遷座してお祀りしたと考えています。おすまし
神仏習合の時代ですし、村人たちはお参りするには同じか近くの場所で……と思うのは今も昔も変わらないと思います。注目

其の後の長い間には、いろいろのことがありましたが、明治の代になって社寺にも改革が求められました。
明治8年(1875)社殿を建てて、改めて讃岐(香川県)の金刀比羅宮から大物主命・白峰大神をお迎えすると共に、今まで長い間、近くで祀られていた金山彦命(金山大明神)も村人の希望で合祀しました。
これによって名称も金刀比羅神社となり、祭神は大物主命・白峰大神(崇徳天皇)・金山彦命の三柱となりました。
また 村内に散在していた十二社を境内に集めて「寄せ宮」を建立し、その他、高根神社の旧名にちなみ、滋賀県の多賀大社からも御神霊をお迎えして多賀神社も建立し、旧来の面目を一新して現在の金刀比羅神社となりました。
この頃に、さきほど紹介した岩場は築山として手入れされたと思われます。注目

金刀比羅神社はこのようにして、幕末から明治の初めにかけての約40年間に、近隣の村々の寄進や、村人の奉仕によって立派なお宮になりました。ナイス
今このことについて考えてみますと、この山頂に197段の石段を造り、起伏のある山頂であるがための整地及び資材の搬入のための出役や、資金の負担など120戸足らずの村人達にとって並大抵のことではなかったと考えられます。
しかし村人たちによって造られた石段や石垣がそれぞれの場所によって高さ、広さ、石を変え、見事に社殿を配置されています。
このことからも先人たちの氏神様に対する深い信仰心を、読みとることができます。ちょき
金刀比羅神社(その1)



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