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2012年02月25日18:30
内野・平口の歴史考察(22)≫
カテゴリー │遠州山辺の道の歴史
三方原の開墾
明治維新までの長い期間、三方原台地は非農耕地として放置されていた。一つは勿論、石交じりの痩せ地で、なおかつ水の便の極端に悪いため、農地として向かないと言うことであるが、それ以上に、台地周辺の25にも及ぶ村々の入会地とされていた事が大きい理由である。何度も、部分的な新田開発は試みられたが、他村の反対に会い、実行はされなかった。反対の理由は、山野・荒地ではあっても、枯れ木・枯れ枝は燃料に、草や木の葉は腐食させ肥料になるなど、非農耕地とは言え、農耕にも生活にも必要な土地であったためである。又一方では、生産物と人口バランスとの兼ね合いもあったと思われる。この地方が、裕福とはいえないまでも恵まれていたと言うことでもあろう。
徳川幕臣の入植
明治維新により、静岡藩40万石に減俸された徳川家の家臣たちは、自給自足をせざるを得なくなり、牧之原や三方原で、開拓に従事した。内野の八丁谷にも、八王子千人隊の士族が入植した。牧之原は今に残る大茶園の開拓に成功し、三方原も百里園はそれなりの成果を収めたが、八丁谷は、土より石の方が多い赤土の痩せ地、竹・雑木雑草の生い茂る一際条件の悪い土地だった。刀持つ手を鋤鍬に変え、慣れぬ作業に精出したが、一向に上がらぬ成果。悪戦苦闘10年余。次第に脱落する者が増え、ここでの開墾は無に帰した。染地川調整池畔の豊川稲荷神社と、正寿院に残された僅かな遺物だけが、血と汗の後を今に伝えている。

なお、三方原百里園に、扶持米として、一日一人、玄米5合が、支給されたと伝えられている。衣食住全てを是でまかなうのだから、厳しさが思いやられる。
開拓記念碑1
内野陣屋の跡を北に行くと、横田輪業の角に、秋葉灯篭と並んで小さな石碑が建っている。

明治36年(1903)11月に建てられたもので、碑文によれば、横田・大村・沢木・中道・太田の諸氏が、荒地を開拓し、菜種・桑・茶などの栽培に成功したことの顕彰碑である。
代々この地に暮らした人たちでさえ、やっと成し遂げた事業が、士族の手に負えなかったのも当然かもしれない。
開墾記念碑2
万葉の森公園正門の向かい、植え込みの中に建っている。明治二十年から大正十五年に掛けて、数度に渡り下賜された荒地を、開墾した記念碑である。

開墾記念碑3
不動寺の一番下、墓地隣りに、足立伊助氏顕彰碑などと共に、建てられている。建立年月は、昭和十五年と記されている。

三基の碑から、維新の後継続して、開拓が続けられてきたことがわかる。
昭和二十年の終戦の後、満州から引き上げてきた人たちが、三方原の開拓に入り、東三方町の元をなすなど、三方原用水の完成とともに、努力は肥沃な農地への改変を見せ、今や、お茶や、桑・菜種などではなく、大根・キャベツ・みかん・なしなどの産地となっている。(山内)
明治維新までの長い期間、三方原台地は非農耕地として放置されていた。一つは勿論、石交じりの痩せ地で、なおかつ水の便の極端に悪いため、農地として向かないと言うことであるが、それ以上に、台地周辺の25にも及ぶ村々の入会地とされていた事が大きい理由である。何度も、部分的な新田開発は試みられたが、他村の反対に会い、実行はされなかった。反対の理由は、山野・荒地ではあっても、枯れ木・枯れ枝は燃料に、草や木の葉は腐食させ肥料になるなど、非農耕地とは言え、農耕にも生活にも必要な土地であったためである。又一方では、生産物と人口バランスとの兼ね合いもあったと思われる。この地方が、裕福とはいえないまでも恵まれていたと言うことでもあろう。
徳川幕臣の入植
明治維新により、静岡藩40万石に減俸された徳川家の家臣たちは、自給自足をせざるを得なくなり、牧之原や三方原で、開拓に従事した。内野の八丁谷にも、八王子千人隊の士族が入植した。牧之原は今に残る大茶園の開拓に成功し、三方原も百里園はそれなりの成果を収めたが、八丁谷は、土より石の方が多い赤土の痩せ地、竹・雑木雑草の生い茂る一際条件の悪い土地だった。刀持つ手を鋤鍬に変え、慣れぬ作業に精出したが、一向に上がらぬ成果。悪戦苦闘10年余。次第に脱落する者が増え、ここでの開墾は無に帰した。染地川調整池畔の豊川稲荷神社と、正寿院に残された僅かな遺物だけが、血と汗の後を今に伝えている。
なお、三方原百里園に、扶持米として、一日一人、玄米5合が、支給されたと伝えられている。衣食住全てを是でまかなうのだから、厳しさが思いやられる。
開拓記念碑1
内野陣屋の跡を北に行くと、横田輪業の角に、秋葉灯篭と並んで小さな石碑が建っている。

明治36年(1903)11月に建てられたもので、碑文によれば、横田・大村・沢木・中道・太田の諸氏が、荒地を開拓し、菜種・桑・茶などの栽培に成功したことの顕彰碑である。
代々この地に暮らした人たちでさえ、やっと成し遂げた事業が、士族の手に負えなかったのも当然かもしれない。
開墾記念碑2
万葉の森公園正門の向かい、植え込みの中に建っている。明治二十年から大正十五年に掛けて、数度に渡り下賜された荒地を、開墾した記念碑である。
開墾記念碑3
不動寺の一番下、墓地隣りに、足立伊助氏顕彰碑などと共に、建てられている。建立年月は、昭和十五年と記されている。
三基の碑から、維新の後継続して、開拓が続けられてきたことがわかる。
昭和二十年の終戦の後、満州から引き上げてきた人たちが、三方原の開拓に入り、東三方町の元をなすなど、三方原用水の完成とともに、努力は肥沃な農地への改変を見せ、今や、お茶や、桑・菜種などではなく、大根・キャベツ・みかん・なしなどの産地となっている。(山内)