内野・平口の歴史考察(6)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

遠江国長上郡覇多郷

大化の改新(645年)により、新たに布かれた国・郡・郷制度で、この地は、遠江国麁玉郡覇多郷となった。麁玉郡には他に、三宅・碧田・赤佐の三郷があったが、なぜか、後、碧田・赤佐は豊田郡に、覇多は長上郡に移され、麁玉郡は三宅郷だけの、一郡一郷と成り、近年まで続いた。おかしなことだ。

覇多郷は、今の半田・内野・平口などを含む、大きな地域を指していたと思われる。万葉集に、当地に所縁あると思われる歌が、四首収載されている。このことは、古墳時代から続く中央との交流が途切れていない証拠と言えよう。万葉の森公園や、区内各所に、所縁の歌碑が建てられている。

内野・平口の歴史考察(6)
万葉の森公園内の歌碑

覇多郷の地名が何時まで使われたのかはっきりしないが、建武三年(1336年)に、花山院前中納言兼信あてにだされた安堵状には、内野郷と記されている。文献に内野が現れる最初である。室町期には小松、戦国時代には平口、と言う地名が文献に出てくる。

三河との国境、湖西山地から大井川までの地区には、とおつおうみのくに・いわたのくに・くどそがのくに・きくかわのくにと呼ばれていた国があった。それが、一つに纏められ、遠江国となったが、国名の由来となった浜名湖(トオツオウミ)は、全体から見れば極く小さな面積なのに、国名となったのは、中央に知られていて、都合が良かった為であろう。国府や国分寺を、国の真中に近い磐田に置いたのは、名は遠江、実は磐田に、と、力のある磐田の豪族を立てた政治的配慮と考える。(山内)




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