赤佐にまつわるお話。

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史


宮口地区からバトンタッチして赤佐地区よりお届けします上昇

現在地図を見ても、「赤佐」の地名はありません,
ただ幼稚園・小学校・JA(農協)・郵便局などに「赤佐」が残されているだけです。
浜北市史を開いて探してみると、約1,300年の昔の藤原京跡から出土した木簡に「荒玉評赤□里」としてあり(□はみなさんの想像に任せます)、更に1,100年前の「和名抄」という本にも「赤狭(安加左)」と記載されています。但し此の頃の「赤狭」は現在の赤佐・中瀬付近を指した大凡の地域と思われます

 それが400余年前頃から「赤虵(蛇)」と書かれたものが散見される様になります。地区内の神社の御札に「赤虵郷」と多く書かれています。「袖ヶ浦赤蛇伝説」の初めでしょうか。口伝えで、尾が付き、鰭が生え、いつの間にか有名人や社寺が加わり、「袖ヶ浦由来記」として現在に伝わってきたと思われます。
その「赤虵郷」も120余年前、新しく「赤佐村」となり、更に50余年前に「浜北町」となって「赤佐村」は無くなり、於呂・根堅・尾野の字名のみが残りました。  
                
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赤佐にまつわるお話。


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