天皇行幸記念碑

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 金刀比羅神社の、東にある東の谷一番池堤の南に、高圧送電線の鉄塔がありますが、その南側に御影石で積まれた土台の上に昭和天皇の行幸記念碑が建てられています。


この記念碑は、昭和天皇が立たれた所の、国道362号線から東の谷池方向に進入する丁字路の北西角に建てられていましたが、新東名高速道路の関連工事により平成14年に現在地へ移転されました。

昭和21年6月18日、食糧増産の状況ご視察で、完成した浜名用水の取水口をご覧になった後、増産に励んでいた尾野の大沢地区へ来られました。




当時、赤佐村村長であった尾野の町田啓次郎氏の説明を聞かれ、田植えをご覧になり、そして、田の畦道深くまで行かれ、田植中の農民に対しやさしく親しくお声を掛けられ、作業の状況を聞かれたりしてその労をねぎらわれました。


この記念碑は、それから5年後の昭和26年6月18日に村民一般の寄付により、村長青島弘氏がこれを建ち、記念碑の題字「行幸記念碑」は斉藤寿夫県知事の書です。また、碑の裏面には建立したいきさつが細かに刻まれています。


この時の農民との会話や、碑文の内容については「赤佐小学校百年の歩み」などに記載されています。



 

久修山 妙重寺 訪問記

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 金刀比羅神社の東で、東の谷池堤の南にある行幸記念碑を左に見て、池の東を北上し、山の中の三番池の東の山に、日蓮正宗で大石寺末寺の妙重寺があります。


妙重寺の歴史は新しく、昭和55年(1980)3月に建立されました。建設当時は、創価学会関係のお寺として、一般の人達はどちらかといえば敬遠されていましたが、時代の移り変わりの中で、いまは自然の中で多くのお墓が静かに眠られています。今回私たちはあまり知られていない地元のお寺を紹介しようと、訪問していろいろお話をお伺いしました。
 境内地は11,000 坪(36,000㎡余)、本堂・庫裡の建坪200坪(660㎡余)、墓苑数2,300区とのことです。
山門は奈良の元興寺山門をモデルとして縮小したもので、とくに鬼瓦を含めた瓦は留意したとのことです。


また寺務所入り口の左にある馬蹄石は安倍川からのもので10㌧以上はあろうかと思われる大物です。 

現在の建物は山門を含めて、平成18年(2006)4月本堂・庫裡など新築し落慶法要が営まれました。棟梁は、法隆寺の宮大工で名高い西岡氏の元で修行した樋口武さん。全部地元の天竜材を使い、各所にチョウナやヤリカンナなどで仕上げられています。大工さんや瓦職人なども国内の各地から来られ、足掛け3年の歳月をかけて完成しました。


特に見事に思ったものは、書院の2間半4枚襖に、いっぱいに大きく火灯窓越しに富士山が描かれた、微細な組子が種々の木材を使って作られています。長野の横田栄一氏が2ヶ年かけて作られたものとのことでした。









お寺の背後は森林公園で、眼下に3番池が満々たる水を湛え、初春の梅に始まり桜、はす、秋の紅葉等四季折々の見所があり、これに誘われて多くの小鳥たちが集まり、自然の楽園の感じがあります。

住職夫妻の心温かい、穏やかな応対に幸せを与えられたような気持ちで下山しました。(小野田・岡本)
                (建物内部を見学される時には、お声をかけて下さい)



 

宮口三十三観音

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 1番~7番 太子堂
  
 8番~12番 傍示木(野口の辻)
  
 13番~15番 金刀比羅神社
  
 16番・17番 陽泰院
  
 18番~20番 保福寺
  
 21番~23番 庚申寺
  
 24番~28番 興覚寺
  
 29番~33番 報恩寺



 

竹内正俊先生と温故塾

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浜名用水に架かる尾野橋の北に、江戸時代末期に尾野村の庄屋として活躍した、竹内藤蔵家がありました。
竹内家は代々油屋を営み、近郷の村々でも「尾野の藤蔵さまは大金持で、庭で毬つき、座敷じゃ三味ひく…」と唄われた程の財産家でした。

当時、この地方には勉学する教場も少なく、村の上層階級の一部は浜松まで行って学びました、このため、竹内藤蔵氏は町田儀平氏などと相談をして、この地でよい教師を迎えて教場を開けば、この地域の人達も勉学しやすくなるとの考えから、明治5年(1872年)7月、当時有名な浜松の初山塾の元正紹氏にお願いして、初山塾の助教であった岡田正俊先生を迎え、自分の長屋に教場を開き「温故塾」と名付けました。先生は竹内一門から妻を迎えて、竹内姓を名乗りました。
竹内正俊先生の名声を聞いた、近隣の村々から大勢の子弟が入門し、数十人の塾生があったといわれており、この塾生の中から立派な人物が輩出しています。


其の後、政府によって学制が頒布され、小学校ができることになりました。明治6年(1873年)9月現在の赤佐・中瀬地区が連合して、温故塾を柴本村の慈眼寺に移し、柴本学校として竹内正俊先生を校長としました。これが赤佐や中瀬の小学校の始めです。

竹内正俊先生はその後、引佐郡の祝田・刑部・都田の小学校長に栄転されましたが、尾野の人達の強い要望によって明治10年(1877年)7月、柴本学校から分離した尾野学校長として戻られました。

正俊先生は、村の多くを占める貧しい子女を対象に、子守をしながら通学させたり、また、その人たちの為に寄附を募ったりしました。それと共に村人の風俗改善のため、自ら範を示し、先に村の有識者に勧めて、次第に広めていきました。これによって村人は次第に感化されて、以後この地域の風俗も大きく改善されたということです。

其の後、豊田・長上・麁玉郡の数十校が連合して議会所をつくり、先生はその会長となり、更に明治12年(1879年)6月には豊田・山名・磐田三郡の書記として学務担当に任じられ、ますます、その才能は重く用いられました。

しかし、不幸にも病魔に侵され、薬石効なく明治13年(1880年)11月22日、わずか33才で逝去されました。先生を尾野に迎えて僅か8年後のことでした。
その後、文部省は先生の教育上の功労を追従して 明治17年(1884年)2月22日、金25円を下付されました。

竹内正俊先生のお墓は、昭和60年9月、尾野の墓地より成子町の法林寺に移されて、子孫の方々によって祀られています。
この様に短い間ではありましたが、教育史上燦然と輝く竹内正俊先生は、「温故塾」と共に永遠にこの地域の誇りであり、また『故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る』先生の精神は、その教え子達に引き継がれ、この地に住む私達の血の中に脈々として流れております。


この輝かしい伝統を持つ、赤佐小学校も創立140年を迎えて、この1月25日 竹内正俊先生の肖像画の前で、記念式典と学習発表会を盛大に催すことになっています。



 

山辺の道「高根山」

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金刀比羅神社への初詣の後に「高根神社」へ多くの方々が
訪ねて戴けました。

 

初日の出「ご来光」を拝みに「十八曲がり」を登り
多くの方々が「高根山」を訪れて戴けました。

季節を問わず、楽しむ事の出来る場所です。
「まだ、行った事の無い」方は、是非訪ねてみて下さいネ

  

高根山には「高根山古墳」があります。
高根神社から100m程度登った、高根山頂上になります。

さあ、貴方も山辺の道を歩いてみませんか?


 

新年明けましておめでとうございます。

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新年明けましておめでとうございます。
遠州山辺の道の会に、様々なご協力を賜り
本年も会員一同 精力的に活動を続けて
行きたいと思います。
どうぞ本年もいっそうのご支援ご協力を
お願い致します。

本年の目標としては「平成根堅参り」と称して
地元に古より伝わる様々な「言い伝え」を
現代の子供達にガイド出来る体制を作り挙げたいと
考えております。

郷土の歴史、史跡を 再確認して戴く
「平成根堅参り」に 多くの市民が山辺の道を
歩いて戴ける様 会員が努力して行きたいと
思いますので、何卒宜しくお願い致します。