内野・平口の歴史考察(18)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

男池

寛永二十一年(1644)、現在県立浜北西高校の建っている場所に、平口村と新原村とが共同で、灌漑用の池「男池」を造りました。周囲十五丁(約1,6㌔米)面積3町2反歩(3,2ヘクタール、32000㎡)の大きさでした。造られた土地は新原でしたが、話し合いの末、水利権は平口が持つことになり、権利料として、平口から新原に、米3斗5升5合(約60キログラム)が支払われることになりました。

こうして、男池は、梔池など他の池同様に、地区の農家に大切にされる一方で、近隣の小学校の遠足の目的地になったりして行楽地としても利用され、夏の間は子供たちの水泳場や、魚釣り場としても使われました。昭和十五年には貸しボート屋も出来、若い人たちで賑わいました。

そのように地域の人たちに愛された池でしたが、農業用水の普及に伴いだんだん使われなくなり、埋められて、昭和40年には、市営グランドになりました。そして、昭和54年に、浜北西高校が誕生しました。
現在、高校の南を流れる五反田川に架かる橋の名前が、上流から、男池橋・東雲橋・寛永橋と付けられたのは、その名残です。東雲は学校の校歌「しののめの遠つ淡海に燦々と・・・」から付けられたものです。(山内)


男池橋と浜北西高校






 

第8回 ワークショップ

カテゴリー │ダイアリー

月一回のペースで開催されている遠州山辺の道ワークショップが、1月21日(土)に開催されました。



今回は、内野陣屋跡や将軍塚古墳周辺の整備等についての検討と、3月4日に赤佐地区で予定されているウォーキングイベントの詳細の詰めなどが中心でした。
最近は各地区ごとの勉強会、イベントの企画も多く提案されるようになってきています。

それぞれ詳細が決まったらこのブログでもご案内・ご紹介していきますので、ぜひご期待ください!



 

内野・平口の歴史考察(17)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

近藤五家

徳川家康の遠州入国に力を貸した井伊の谷三人衆の一人、近藤岩見守康用は、徳川に臣従した後、頭角を現し、井伊の谷城を本拠に、旧引佐郡から浜北市に掛けて、1万5千石を領有する大名となった。その子秀用は、寛永年間に、子供五人に、領地を分割相続させた。是が、近藤五家である。

それぞれの氏名・本拠地・石高・浜北区内の領地を記すと、次のようになる。
長子;近藤登之助(金指)4400石・安泰寺・平口・岩水
次子;近藤彦九郎(井伊谷)4000石・宮口・尾野・御馬池
三子;近藤縫之助(気賀)3000石・新原・道本・小松
四子;近藤五左衛門(大谷)3000石・内野・小嶋
五子;近藤仲(花平)800石・雲岩寺

このように五家共に当地に深くかかわっているが、特に、金指近藤家は、不動寺に出世稲荷と金光明経塔を寄進し、気賀近藤家は、小松の庄屋袴田家に長屋門を建てさせた。大谷近藤家は、幕末になり三ケ日大谷から陣屋を内野に移したなど、関連が深い。(山内)


不動寺 金光明経塔






 

内野・平口の歴史考察(16)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

戦国期

室町期に於ける遠江の守護職は、今川氏・斯波氏を主としながらも、他氏を交えて、かなりな変動があった。このため、守護職の両国支配は手ぬるい物となり、在地領主が、力を蓄えることとなった。浜北地域は実質的に井伊氏の領国であったと推測される。
応仁の乱の時、遠江の守護は斯波氏で、斯波氏は山名宗善の西軍に属した。一方、駿河守護職の今川氏は、遠江の守護職をも併せ取らんと欲し、東軍に加担した。文明六年以降、幾たびも侵攻を繰り返したが、永正十一年三月、三岳城を攻略し、井伊氏を傘下に納めた。これらにより、井伊氏は、領地は安堵されたものの、国人領主から今川の被官と立場は変わった。

三方原の戦い前

桶狭間で、今川義元が、織田信長に打たれた後、永禄五年、井伊直親に謀反の疑いありとして、掛川城で、朝比奈泰朝により殺された。井伊直政は三河に出奔し、徳川に保護を求めた。井伊氏不在の井伊の谷は、井伊の谷三人衆(菅沼・近藤・鈴木)により、分割所有されていた。徳川家康は、今川のくびきから解き放たれ、岡崎城に入り、織田と結んだ。
義元なき後の駿遠を、掌中に治めようと、武田軍は侵攻を始めた。先の今川方の遠州侵攻についで、浜北地区は、又も、戦火に晒されることになった。岩水寺が、本堂一棟のみを残して焼け落ちたのは、このときである。徳川方も、武田の侵入を放置できず、井伊の谷三人衆を味方に付け、浜松に入城し、此処を本拠とした。

三方原の戦い後

元亀三年十二月二十二日、2万5千の大軍を擁して、遠州に侵攻した武田軍と、浜松在城の徳川軍とが、三方原にて激突した。戦いは、内野・平口地区には、直接の関与はなかったが、三方原台地に武田軍が上がった場所として、新原の休兵坂が挙げられている。


休兵坂

又、新原の地名の起こりとして、武田方の武将新原弥左衛門城尉村一が駐屯した場所で、後、徳川方に移り、この地を与えられたとき、自分の姓を、地名としたと伝えられている。内野の、横田氏も、武田方の武将であったが、戦いで負傷し、此処に土着、帰農したのが始まりといわれる。(山内)




 

宮口ウォーク開催報告

カテゴリー │イベント情報

  

本日、「遠州山辺の道in宮口ウォーク」が開催されました。

事前の募集では定員30名ということでしたが、50名を超える参加者が集まっていただき、みなさんの関心の高さをひしひしと感じました。

コースは朝の10時に庚申寺を出発し、宮口駅や六所神社といった宮口各所の史跡等を巡るものでしたが、終了後は庚申寺で行われている庚申大祭(初庚申)を見学していただき、名物の庚申こんにゃくの試食もされました。

  

参加者の方に感想を伺ったところ、普段は歩けないような裏道を歩けたことや、地域の文化を再発見できたことなどが良かったとのことでした。

宮口地区としての次回の開催は未定ですが、また機会がありましたらよろしくお願いします。




 

内野・平口の歴史考察(15)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

宇治乃御厨

異論もあるが、内野神明宮の所在から見ても、内野にあったとして間違いはないと考える。御厨とは、伊勢神宮の荘園と位置づけて良いと思うが、だからどうという事はない。中央との結びつきが濃かった程度のことだろう。この時代、他に記す材料は見当たらない。


内野神明宮

内野郷

南北朝時代に、この地区がどのような状況であったかを知る手がかりは少ないが、後醍醐天皇の第八皇子・宗良親王が、遠江・白羽に上陸、三岳城に入られたことと、三岳城の支城大平城の存在、三岳城主井伊氏の勢力範囲であったことなどから、南朝側であったと推測される。建武三年(延元元年、1336)に、光厳上皇の院宣により、遠江国・内野郷が、花山院前中納言兼信に、安堵されている。この「徳禅寺文書」が、内野の文字が文書に出る最初である。因みに、小松は室町時代に、平口は戦国時代になって、文献に出てきます。(山内)