内野・平口の歴史考察(16)

カテゴリー │遠州山辺の道の歴史

戦国期

室町期に於ける遠江の守護職は、今川氏・斯波氏を主としながらも、他氏を交えて、かなりな変動があった。このため、守護職の両国支配は手ぬるい物となり、在地領主が、力を蓄えることとなった。浜北地域は実質的に井伊氏の領国であったと推測される。
応仁の乱の時、遠江の守護は斯波氏で、斯波氏は山名宗善の西軍に属した。一方、駿河守護職の今川氏は、遠江の守護職をも併せ取らんと欲し、東軍に加担した。文明六年以降、幾たびも侵攻を繰り返したが、永正十一年三月、三岳城を攻略し、井伊氏を傘下に納めた。これらにより、井伊氏は、領地は安堵されたものの、国人領主から今川の被官と立場は変わった。

三方原の戦い前

桶狭間で、今川義元が、織田信長に打たれた後、永禄五年、井伊直親に謀反の疑いありとして、掛川城で、朝比奈泰朝により殺された。井伊直政は三河に出奔し、徳川に保護を求めた。井伊氏不在の井伊の谷は、井伊の谷三人衆(菅沼・近藤・鈴木)により、分割所有されていた。徳川家康は、今川のくびきから解き放たれ、岡崎城に入り、織田と結んだ。
義元なき後の駿遠を、掌中に治めようと、武田軍は侵攻を始めた。先の今川方の遠州侵攻についで、浜北地区は、又も、戦火に晒されることになった。岩水寺が、本堂一棟のみを残して焼け落ちたのは、このときである。徳川方も、武田の侵入を放置できず、井伊の谷三人衆を味方に付け、浜松に入城し、此処を本拠とした。

三方原の戦い後

元亀三年十二月二十二日、2万5千の大軍を擁して、遠州に侵攻した武田軍と、浜松在城の徳川軍とが、三方原にて激突した。戦いは、内野・平口地区には、直接の関与はなかったが、三方原台地に武田軍が上がった場所として、新原の休兵坂が挙げられている。

内野・平口の歴史考察(16)
休兵坂

又、新原の地名の起こりとして、武田方の武将新原弥左衛門城尉村一が駐屯した場所で、後、徳川方に移り、この地を与えられたとき、自分の姓を、地名としたと伝えられている。内野の、横田氏も、武田方の武将であったが、戦いで負傷し、此処に土着、帰農したのが始まりといわれる。(山内)



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