【宮口の歴史】宮口と万葉集

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少し前回の記事とは時代が前後しますが、今回は麁玉郡出身者が詠んだ『万葉集』の歌についてです。

『万葉集』とはご存知のとおり、8世紀後半ころに編まれた日本最古の和歌集です。この中には、遠江国からの防人(さきもり)の歌として、以下のような歌が収められています。

和我都麻波 伊多久古非良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受

(我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に  影さへ見えて  よに忘られず)

歌の意味「私の妻は大変私を恋い慕っているらしい。水を飲もうとするとその水に妻の面影が映ってどうしても忘れることができない。」


作者は「主帳丁麁玉郡若倭部身麻呂」といいます。
なんだか長い作者名ですね。

「主帳(しゅちょう(ふみひと))」とは役職名で、防人の集団の中で文書を読み書きする仕事に従事した人と考えられます。
「丁(てい(よほろ))」は成人男子のこと。
「麁玉郡(あらたまのこおり)」は居住地。
そして「若倭部身麻呂(わかやまとべのむまろ)」が名前です。
現代風に言えば「遠江国からの防人付きの事務員、麁玉郡の若倭部身麻呂」といったところでしょうか?

なお、この歌は天平勝宝七(755)年2月に、防人(九州での兵役)の任務に就くために諸国から集められた人たちが筑紫(現在の福岡県)に赴く途中に詠んだものの中で優れた歌を、大伴家持が選んで記録したもののうちのひとつです。

その後、若倭部身麻呂がどうなったのでしょうか。役目を終えて無事に妻の待つ麁玉へ帰ることができたのでしょうか。

残念ながら、その記録は残されていません。




 

「遠州山辺の道講演会」のお知らせ

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内野・平口グループ勉強会の拡大版として下記講演会を開催します。

 日時:6月30日(土) 10:00-11:30
 場所:なゆた浜北 (http://www3.tokai.or.jp/nayuta/map.htm )
     3階 第2集会室
 講師:鈴木京太郎氏 
 参加費:無料
 *「浜松市文化財ブックレット4 遠州山辺の道を歩く」をお持ちの方は
  お持ちください。

講師は現在浜松市文化財課に在任されていますが、前任の浜北区まちづくり推進課時代には「遠州山辺の道」整備計画を推進され、「遠州山辺の道」に関するディープなお話が伺えると思います。

どなたでもご参加いただけますが、準備の都合で参加ご希望の方は事前に←の「お問い合わせ」までご連絡いただけると幸いです。




 

【宮口の歴史】宮口と鶴岡八幡宮

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前回は平城宮跡から出土した木簡に「遠江国荒玉郡」の記載があったことに触れましたが、今回も宮口に関係する歴史的資料についてです。

暦応二年(1339年)四月五日、室町幕府初代将軍である足利尊氏が天下泰平・国家安穏を祈願して、遠江国宮口郷を鶴岡八幡宮へ寄進する旨の文書が鶴岡八幡宮に残されています。
その文書、次のとおりです。

寄せ奉る 鶴岡八幡宮
遠江国宮口郷 相模国弘河郷
備前入道跡 地頭職の事
右、天下泰平、国土安穏のため、寄せ奉るの状 件(くだん)の如し、
暦応二年四月五日 正二位行権大納言 源朝臣(足利)尊氏


なぜ宮口が寄進地となったのでしょうか?
時は南北朝の争乱の真っ只中。
同年の7月には北朝方の高師泰が、南朝方の井伊攻めのため京から大平(おいだいら)に向かっています。
翌年の8月には南朝方の砦である大平城が落城しています。
大平から宮口は目と鼻の先。その宮口が北朝方の尊氏によって寄進されていることは、大変興味深いことです。

また、『浜北市史資料編 原始古代中世』では、その前年に全国的な飢餓があったこと、南朝方の抵抗が激しかったことを挙げ、
源氏の氏神である鶴岡八幡宮に天下泰平の祈祷を行わせるための寄進であったのではないかとしています。

それにしても、一時的にでも宮口が鶴岡八幡宮の管理下にあったというのは驚きですね。

なお、この文書は今でも鶴岡八幡宮に大切に保管されています。



 

【宮口の歴史】平城京の木簡

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宮口の歴史について調べてみると、いつ頃「宮口」という地名が成立したのかははっきりしなくても、この地域は相当古い歴史を有しているように考えられます。
それを裏付けるものとして、奈良県奈良市で1950年から続いている平城宮跡の発掘調査で次のように記された木簡が発見されました。

外従初上物部浄人 遠江国荒玉郡人☐☐☐☐遣高麗使叙位

これは、『続日本紀』の天平宝字二年(758年)十月二十八日、遣渤海使への叙位記事に対応するものと考えられ、遣渤海使に荒玉郡出身の「物部浄人」が随行しており、その功に対して位階を授けられたことが分かります。
「荒玉郡」は「麁玉郡」の古い表記で、現在の宮口地域はこの麁玉郡の中に含まれていると考えられています。

それにしても、当時の首都である平城京から見れば、宮口近辺は片田舎だったのですが、そのような土地から外交使節の一員となった「物部浄人」は、当時の宮口地域の有名人だったのかも知れませんね。



 

【宮口の歴史】麁玉そして宮口の変遷

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宮口地区の子供たちが通う小学校、中学校の名前はそれぞれ麁玉小学校、麁玉中学校といいます。
地元の人は当たり前のように読める「麁玉」ですが、一般的には難読文字であり、読める方は少ないように思われます。ちなみに、「麁玉(あらたま)」と読むのですが、昭和31年までは引佐郡麁玉村(現在の宮口、新原、堀谷、大平、灰の木)が存在していました。今回は宮口地区のもう一つの呼び名である「あらたま」について書きたいと思います。

宮口まちおこしの会が調べたところによると、「あらたま」という呼び方が地名として歴史上に登場するのは、694年に造営された藤原宮跡から出土した木簡に「荒玉評(あらたまごおり)」と記されていたことが最初だそうです。
この時代ではまだ「荒」の字が使われていました。713年(奈良時代)に、郡名をを縁起の良い字に改めなさいという命令が出され、その時に荒地を思わせる「荒」という字に替えて、磨かれる前の玉を意味する「麁」の字に改められたと考えられています。
日本最古の歌集『万葉集』には、755年2月6日に、歌を進上した遠江国の防人の中に「麁玉郡」出身の若倭部身麻呂の名前が見られます。

930年代(平安時代)につくられた『和名類聚抄』という日本最初の百科事典よると、当時は遠江国麁玉郡に三宅(みやけ)郷という地名があったことがわかります。この三宅の入口が変化して、三宅口、宮口というようになったとも考えられています。
なお、「宮口」という地名が確認できる最古のものとして、1339年に足利尊氏が宮口郷を鶴岡八幡宮に寄進するという文書が、現在でも鶴岡八幡宮に保存されています。

以上のように、「あらたま」という地名は「みやぐち」よりも古いということが分かります。
でも、どちらも十分古いですね。



 

内野・平口グループ6月度勉強会

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6月3日、「内野・平口を楽しむ会」が開催されました。
今月も山内会長の案内でテーマは「半僧坊道をたどる」です。



ルートは、以下の通り。
西ヶ崎駅→不動寺道・半僧坊道の木標→泰月院→蔵泉院→小島神社→津島神社→真光時→御陣屋川と馬込川の合流地→札木跡→妙理白山大権現→舟岡山

今回も前回と同様、かつての半僧坊道に建てられた道標をたどりました。







この道沿いもかつては賑わったようで社寺旧跡が多く存在しています。


蔵泉院、砂の帚目がきれいでした

次回は6月30日、梅雨の真っ最中なので講演会の開催を予定しています。
詳細はまた後日ご案内いたします。(まるじゃが)