2012年05月12日
内野・平口の歴史考察(33)
染地台野鳥公園

広い芝生の広場。子供の好奇心を呼ぶ遊具。森を縫い遊水池と結ぶ遊歩道。染地台住民の、夏祭りの場、内野台・染地台両方の老人のゲートボールの場としても使われる。綺麗な公園であることは確か。


しかし、オオタカの営巣地だから建設反対の声を他所に、強行されたことは忘れて欲しくない。小さくなった森に、オオタカが戻ってくるのか、せめてもの願いを、野鳥公園の名に込める。(山内)
広い芝生の広場。子供の好奇心を呼ぶ遊具。森を縫い遊水池と結ぶ遊歩道。染地台住民の、夏祭りの場、内野台・染地台両方の老人のゲートボールの場としても使われる。綺麗な公園であることは確か。
しかし、オオタカの営巣地だから建設反対の声を他所に、強行されたことは忘れて欲しくない。小さくなった森に、オオタカが戻ってくるのか、せめてもの願いを、野鳥公園の名に込める。(山内)
2012年05月07日
内野・平口グループ5月度勉強会
5月6日、「内野・平口を楽しむ会」が開催されました。
今月も山内会長の案内で、テーマは「不動寺詣での道をたどる」です。

ルートは、以下の通り。
小松駅→小松の大鳥居→袴田家の長屋門→光生寺→失せ物稲荷→紹隆寺→招魂社・神明宮跡・小松学校跡→浜名町(小野口村)役場跡→不動往還→協立十全病院の大クスノキ→平口新田公会堂→山の神神社→山林遺跡→妙蓮寺
今回のお楽しみは、かつての不動寺の参詣道沿いに建てられた道標の数々で、わずか数キロの間に13もの道標・里程標がありました。



また道沿いには社寺旧跡も多く、往時の繁栄が偲ばれます。

袴田家の長屋門

光正寺旧本堂の棟木を拝見
次回は、6月3日西ヶ崎から半僧坊道をたどります。
参加希望の方があれば←の「お問い合わせ」までご連絡ください。(まるじゃが)
今月も山内会長の案内で、テーマは「不動寺詣での道をたどる」です。
ルートは、以下の通り。
小松駅→小松の大鳥居→袴田家の長屋門→光生寺→失せ物稲荷→紹隆寺→招魂社・神明宮跡・小松学校跡→浜名町(小野口村)役場跡→不動往還→協立十全病院の大クスノキ→平口新田公会堂→山の神神社→山林遺跡→妙蓮寺
今回のお楽しみは、かつての不動寺の参詣道沿いに建てられた道標の数々で、わずか数キロの間に13もの道標・里程標がありました。
また道沿いには社寺旧跡も多く、往時の繁栄が偲ばれます。
次回は、6月3日西ヶ崎から半僧坊道をたどります。
参加希望の方があれば←の「お問い合わせ」までご連絡ください。(まるじゃが)
2012年05月05日
内野・平口の歴史考察(32)
つみいしづか広場

復元された二本ヶ谷積石塚古墳群を見学するため平成二十年に開設された緑地。中心の赤門川調整池を一回りする約900米の遊歩道も設けられ、近隣住民に親しまれている。


駐車場・トイレも整備されていて、近くの、古墳巡りのコース(約1時間)の基点としても便利。(山内)
復元された二本ヶ谷積石塚古墳群を見学するため平成二十年に開設された緑地。中心の赤門川調整池を一回りする約900米の遊歩道も設けられ、近隣住民に親しまれている。
駐車場・トイレも整備されていて、近くの、古墳巡りのコース(約1時間)の基点としても便利。(山内)
2012年04月28日
内野・平口の歴史考察(31)
万葉の森公園
万葉集に、浜北区所縁の歌が、四首収載されていることから、万葉集に出てくる植物栽培し、日本古来の文化を長く後世に伝えるため、平成四年四月に開園した。現在、22987㎡の園地に、万葉歌碑が四基建ち、万葉植物300種、5000本が植栽されている。

園内には、資料館も設けられ、又万葉食や、草木染の体験も出来る。

平城京を模して造られた曲水庭園では、毎年秋の万葉祭には、みやびな雅楽の演奏の下、曲水の宴が繰り広げられる。(山内)
万葉集に、浜北区所縁の歌が、四首収載されていることから、万葉集に出てくる植物栽培し、日本古来の文化を長く後世に伝えるため、平成四年四月に開園した。現在、22987㎡の園地に、万葉歌碑が四基建ち、万葉植物300種、5000本が植栽されている。
園内には、資料館も設けられ、又万葉食や、草木染の体験も出来る。

平城京を模して造られた曲水庭園では、毎年秋の万葉祭には、みやびな雅楽の演奏の下、曲水の宴が繰り広げられる。(山内)
2012年04月21日
内野・平口の歴史考察(30)
浜名ニュータウン
昭和四十一年、三方原台地の一角を切り開き、新しい町を造る工事が始まった。東南海商事が開発し、恵通商事が販売を担当した。この地区では始めての、1700戸と言う大規模な住宅団地であった。
1丁目から4丁目まで、各町内に公園が作られ、1・2丁目と、3・4丁目の境には、商業用地も設けられる計画で工事は進行し、1丁目から、順次、住宅が建設され、入居者は高速度で増加した。昭和46年200戸,48年450戸、51年700戸と増えて、60年には1000戸を超えた。
新しい町だから、子供の数も多く、急増する生徒数に対応するため、48年には内野北幼稚園が開かれて、58年4月、内野小学校が、浜名小学校から分離、開校した。開発当初の商店街計画は、生活環境の変化で崩れたものの、スーパーは三店店開きし、魚屋も八百屋も本屋も有った。憩いの場として、喫茶店もあり、ゴルフの練習場や、プールまでが、老若男女沢山の人で賑わった。夏には納涼祭が行われ、秋には町民運動会が、きじ山グランドで開催された。
そのうち、ゴルフの練習場や、プールはなくなり、運動会も開かれなくなり、今は、きじ山グランドも姿を消した。かってのニュータウンも、内野台と呼び名を変え、年寄りの姿が目立つようになった。スーパーが一つも無くなった事は、年寄りには辛い事だが、近くに、大型店が、三つも開店した。いつか又、若々しい息吹のみなぎる町になることを期待している。(山内)

内野台のロータリーとスーパー跡
昭和四十一年、三方原台地の一角を切り開き、新しい町を造る工事が始まった。東南海商事が開発し、恵通商事が販売を担当した。この地区では始めての、1700戸と言う大規模な住宅団地であった。
1丁目から4丁目まで、各町内に公園が作られ、1・2丁目と、3・4丁目の境には、商業用地も設けられる計画で工事は進行し、1丁目から、順次、住宅が建設され、入居者は高速度で増加した。昭和46年200戸,48年450戸、51年700戸と増えて、60年には1000戸を超えた。
新しい町だから、子供の数も多く、急増する生徒数に対応するため、48年には内野北幼稚園が開かれて、58年4月、内野小学校が、浜名小学校から分離、開校した。開発当初の商店街計画は、生活環境の変化で崩れたものの、スーパーは三店店開きし、魚屋も八百屋も本屋も有った。憩いの場として、喫茶店もあり、ゴルフの練習場や、プールまでが、老若男女沢山の人で賑わった。夏には納涼祭が行われ、秋には町民運動会が、きじ山グランドで開催された。
そのうち、ゴルフの練習場や、プールはなくなり、運動会も開かれなくなり、今は、きじ山グランドも姿を消した。かってのニュータウンも、内野台と呼び名を変え、年寄りの姿が目立つようになった。スーパーが一つも無くなった事は、年寄りには辛い事だが、近くに、大型店が、三つも開店した。いつか又、若々しい息吹のみなぎる町になることを期待している。(山内)
2012年04月14日
内野・平口の歴史考察(29)
道標
道標は、内野に五基、平口に十一基、小松に八基あります。
一番古いのは、小松の大鳥居の下の灯篭で、竿の部分が秋葉道の道標になって居ります。鳥居下には別にもう一つ、秋葉道と半僧坊道の別れを告げる道標がありますが、これは、明治17年建立とありますから115年ほど経って居ります。

明治17年建立のものは、小松本町・小松西向・姥が谷にもあります。このほかは、昭和三年・五年の昭和天皇御大典を記念して造られたのが六基あって、一番新しいのは、不動寺口と言う昭和四十八年五月建立のものです。

いずれにしても、これらの道標は、自分のために建てた物ではなく、何処の誰かも判らない、旅人が、道に迷って困らないようにと言う思いやりの表れです。知らない町で、歩いている方角が正しいのかどうか判らない心寂しさは、誰にも経験のあること、そのような人たちを助けるために立てたもの。我々の先祖は、こんなに優しい心の持ち主であったことを、誇りとすべでしょう。(山内)
内野・平口グループ5月、6月勉強会ではこの地区の道標を巡る予定です。
・5月6日(日)小松駅からサンストリートまで不動道
・6月3日(日)西ヶ崎から半僧坊道
(いずれも午前9時から12時頃まで)
参加ご希望の方があれば←の「お問い合わせ」までご連絡ください。
道標は、内野に五基、平口に十一基、小松に八基あります。
一番古いのは、小松の大鳥居の下の灯篭で、竿の部分が秋葉道の道標になって居ります。鳥居下には別にもう一つ、秋葉道と半僧坊道の別れを告げる道標がありますが、これは、明治17年建立とありますから115年ほど経って居ります。
明治17年建立のものは、小松本町・小松西向・姥が谷にもあります。このほかは、昭和三年・五年の昭和天皇御大典を記念して造られたのが六基あって、一番新しいのは、不動寺口と言う昭和四十八年五月建立のものです。
いずれにしても、これらの道標は、自分のために建てた物ではなく、何処の誰かも判らない、旅人が、道に迷って困らないようにと言う思いやりの表れです。知らない町で、歩いている方角が正しいのかどうか判らない心寂しさは、誰にも経験のあること、そのような人たちを助けるために立てたもの。我々の先祖は、こんなに優しい心の持ち主であったことを、誇りとすべでしょう。(山内)
内野・平口グループ5月、6月勉強会ではこの地区の道標を巡る予定です。
・5月6日(日)小松駅からサンストリートまで不動道
・6月3日(日)西ヶ崎から半僧坊道
(いずれも午前9時から12時頃まで)
参加ご希望の方があれば←の「お問い合わせ」までご連絡ください。
2012年04月10日
内野・平口グループ4月度勉強会
4月8日、桜が満開でしかも絶好の天気のなか内野・平口グループの4月度勉強会「内野・平口を楽しむ会」が開催されました。

今回は山内会長による「内野を歩く」です。

ルートは、以下の通り。
二本ヶ谷つみいしづか広場→万福寺跡→しだれ山桜の里→赤門川→龍泉院→小用町通り→御陣屋川堤→旧御陣屋橋欄干・レンガ塀→内野の斜塔→アイガモ農法の田→漆喰塀・旧陣屋の門→菜の花畑→馬橋跡→中馬橋→郷蔵跡→井下石橋→札木跡→新屋橋→馬頭観音→福応寺→内野西公会堂→正寿院→道しるべ→悪人地蔵→瀧本大権現→豊川稲荷神社→染地川調整池→きじの里→赤門川調整池→二本ヶ谷つみいしづか広場
今回も身近にある歴史満載で、気分はブラタモリでした。
次回は、5月6日小松駅からサンストリートまで不動道の道標を巡る予定です。
参加希望の方は←の「お問い合わせ」までご連絡ください。(まるじゃが)
今回は山内会長による「内野を歩く」です。
ルートは、以下の通り。
二本ヶ谷つみいしづか広場→万福寺跡→しだれ山桜の里→赤門川→龍泉院→小用町通り→御陣屋川堤→旧御陣屋橋欄干・レンガ塀→内野の斜塔→アイガモ農法の田→漆喰塀・旧陣屋の門→菜の花畑→馬橋跡→中馬橋→郷蔵跡→井下石橋→札木跡→新屋橋→馬頭観音→福応寺→内野西公会堂→正寿院→道しるべ→悪人地蔵→瀧本大権現→豊川稲荷神社→染地川調整池→きじの里→赤門川調整池→二本ヶ谷つみいしづか広場
今回も身近にある歴史満載で、気分はブラタモリでした。
次回は、5月6日小松駅からサンストリートまで不動道の道標を巡る予定です。
参加希望の方は←の「お問い合わせ」までご連絡ください。(まるじゃが)
タグ :内野・平口を楽しむ会
2012年04月07日
内野・平口の歴史考察(28)
秋葉灯篭
内野に6基、平口に3基、小松に7基存在して居ります。
古いのは小松の大鳥居の下の鞘堂の中に納められている灯篭で、明和五年(1768)に建立されました。

ついで、平口新田の公会堂裏に建つものは、天明五年(1785)に造られました。この灯篭は、小ぶりですが、姿形が優美です。

反対に新しいのは、小松本町の公会堂前のもので、平成五年と記されて居ります。
形は、基台・基礎・基盤・竿・火袋・笠・擬宝珠と、どれも同じようですが、小松沖にあるのは、竿が石の柱でその上に火袋がのって居ります。また、内野下のものは、石の柱と鉄製の火袋を鉄棒で結んであります。
鞘堂に入っている物が三基有って、是を龍灯と呼び、外にあるものを秋葉灯篭と言って居りますが、龍灯とは本来、神に捧げる火、即ち灯篭のことですので、あえて区別することはないと思います。
現在、鞘堂は鍵がかかっていて中に入られませんが、昔は、鍵など掛かっておらず、路銀の乏しい参拝者が、夜露にぬれずに一夜を過ごすために利用できたといわれます。他人への優しさは、これからも伝えたいものです。(山内)
内野に6基、平口に3基、小松に7基存在して居ります。
古いのは小松の大鳥居の下の鞘堂の中に納められている灯篭で、明和五年(1768)に建立されました。
ついで、平口新田の公会堂裏に建つものは、天明五年(1785)に造られました。この灯篭は、小ぶりですが、姿形が優美です。
反対に新しいのは、小松本町の公会堂前のもので、平成五年と記されて居ります。
形は、基台・基礎・基盤・竿・火袋・笠・擬宝珠と、どれも同じようですが、小松沖にあるのは、竿が石の柱でその上に火袋がのって居ります。また、内野下のものは、石の柱と鉄製の火袋を鉄棒で結んであります。
鞘堂に入っている物が三基有って、是を龍灯と呼び、外にあるものを秋葉灯篭と言って居りますが、龍灯とは本来、神に捧げる火、即ち灯篭のことですので、あえて区別することはないと思います。
現在、鞘堂は鍵がかかっていて中に入られませんが、昔は、鍵など掛かっておらず、路銀の乏しい参拝者が、夜露にぬれずに一夜を過ごすために利用できたといわれます。他人への優しさは、これからも伝えたいものです。(山内)
2012年04月06日
2012年03月31日
内野・平口の歴史考察(27)
不動寺の掲額二面(後編)
山県有朋の額
本堂の中、正面賽銭箱の真上に、不動寺の文字の入ったちょうちんに隠される様に掲示されている。

「赤心報国」赤い心とは、うそ偽りのない真心。真心を持って国の恩に報いる。国のことはそっちのけで、自己の利得のみを画策している、今の政治家や、エリート官僚に聞かせたい言葉である。この額が、どうしてここにあるのか、寺にも記録がないので判らないと言う。
鳥羽伏見の戦いの後、有栖川宮熾仁親王を東征軍大総督に仰いだ薩長土肥を主とする官軍は、東海道・中仙道を東進した。沿道から官軍に参じる者も多かったが、静岡県からは、遠州報国隊・駿河赤心隊などが、神主・神職を中心に結成された。この時、山県有朋は30歳、長州軍の主力、奇兵隊を率いて参戦していた。何らかの形で接触があったとしても、不思議ではない。日露戦争時には、参謀本部長として総軍の指揮を取った。若き日に接した赤心隊・報国隊を思い起こし、同じ長州出身者同士、参拝される乃木大将に「赤心報国」なる額を、託されたのではなかろうか。(山内)
山県有朋の額
本堂の中、正面賽銭箱の真上に、不動寺の文字の入ったちょうちんに隠される様に掲示されている。
「赤心報国」赤い心とは、うそ偽りのない真心。真心を持って国の恩に報いる。国のことはそっちのけで、自己の利得のみを画策している、今の政治家や、エリート官僚に聞かせたい言葉である。この額が、どうしてここにあるのか、寺にも記録がないので判らないと言う。
鳥羽伏見の戦いの後、有栖川宮熾仁親王を東征軍大総督に仰いだ薩長土肥を主とする官軍は、東海道・中仙道を東進した。沿道から官軍に参じる者も多かったが、静岡県からは、遠州報国隊・駿河赤心隊などが、神主・神職を中心に結成された。この時、山県有朋は30歳、長州軍の主力、奇兵隊を率いて参戦していた。何らかの形で接触があったとしても、不思議ではない。日露戦争時には、参謀本部長として総軍の指揮を取った。若き日に接した赤心隊・報国隊を思い起こし、同じ長州出身者同士、参拝される乃木大将に「赤心報国」なる額を、託されたのではなかろうか。(山内)
2012年03月24日
内野・平口の歴史考察(26)
不動寺の掲額二面(前編)
乃木大将の額
不動寺本堂の正面に掲げられている。不動寺山号「瀑布山」雄渾な筆致をそのまま彫り起こしてある。

筆者の乃木希介は、NHKTVドラマ「坂の上の雲」で、柄本明が扮して、演じたから承知と思うが、日露戦争時に、旅順攻撃で、悪戦苦闘「山川草木転荒涼・・・一将功成万卒枯」と慨嘆した明治の名将である。日本海海戦を勝利に導いた東郷元帥と、海の東郷・陸の乃木と並び称される。
日露戦の後、明治天皇の御前で、多数の赤子を死なせたことを詫びられた時、天皇は、大将の覚悟を察せられ「そちの命は朕が預かる」といさめられた。思いとどまった大将は、その後学習院院長に就き、昭和天皇の養育に当たられるなど勤められたが、明治天皇の崩御に会い、静子夫人と共に自刃された。最後の古武士、日本人の亀鑑とも言うべき人であった。
この乃木将軍が、明治37年日露開戦の前に、不動寺に勝利祈願に訪れられたとき、山号の額を揮毫された。39年にも、お礼に来られた記録がある。額の元になった直筆は、寺の庫裏に大切に保管されている。(山内)
乃木大将の額
不動寺本堂の正面に掲げられている。不動寺山号「瀑布山」雄渾な筆致をそのまま彫り起こしてある。
筆者の乃木希介は、NHKTVドラマ「坂の上の雲」で、柄本明が扮して、演じたから承知と思うが、日露戦争時に、旅順攻撃で、悪戦苦闘「山川草木転荒涼・・・一将功成万卒枯」と慨嘆した明治の名将である。日本海海戦を勝利に導いた東郷元帥と、海の東郷・陸の乃木と並び称される。
日露戦の後、明治天皇の御前で、多数の赤子を死なせたことを詫びられた時、天皇は、大将の覚悟を察せられ「そちの命は朕が預かる」といさめられた。思いとどまった大将は、その後学習院院長に就き、昭和天皇の養育に当たられるなど勤められたが、明治天皇の崩御に会い、静子夫人と共に自刃された。最後の古武士、日本人の亀鑑とも言うべき人であった。
この乃木将軍が、明治37年日露開戦の前に、不動寺に勝利祈願に訪れられたとき、山号の額を揮毫された。39年にも、お礼に来られた記録がある。額の元になった直筆は、寺の庫裏に大切に保管されている。(山内)
2012年03月19日
内野・平口グループ3月度勉強会
3月18日、内野・平口グループの3月度勉強会「内野・平口を楽しむ会」が開催されました。今回は、山内会長の案内による「平口寺社巡り」です。

ルートは、以下の通りで約5キロメートル。
万葉の森公園→伝・休兵坂→梔池緑地→五反田川堤防→梔池遺跡→浜北西高校(男池跡・清水遺跡)→西福寺→徳生寺→秋葉灯篭→金刀比羅神社→御陣屋川源流→平口本村道標→平口八幡宮→不動寺→万葉の森公園
寺社巡りといいながら、途中には史跡あり自然ありの盛りだくさんの内容でした。
この地域には道標が多いのですが、普段気がつかないところにひっそりとあったりして驚かされます。

また、かつてこの地域に重要な役割を果たした湧水、水路、川、溜池の痕跡を辿ることができました。

身近にある歴史・自然を再発見するいい体験となりました。
今後、こうした資源を遠州山辺の道の新しいコースとして整備していきたいと考えています。(まるじゃが)
ルートは、以下の通りで約5キロメートル。
万葉の森公園→伝・休兵坂→梔池緑地→五反田川堤防→梔池遺跡→浜北西高校(男池跡・清水遺跡)→西福寺→徳生寺→秋葉灯篭→金刀比羅神社→御陣屋川源流→平口本村道標→平口八幡宮→不動寺→万葉の森公園
寺社巡りといいながら、途中には史跡あり自然ありの盛りだくさんの内容でした。
この地域には道標が多いのですが、普段気がつかないところにひっそりとあったりして驚かされます。
また、かつてこの地域に重要な役割を果たした湧水、水路、川、溜池の痕跡を辿ることができました。
身近にある歴史・自然を再発見するいい体験となりました。
今後、こうした資源を遠州山辺の道の新しいコースとして整備していきたいと考えています。(まるじゃが)
2012年03月17日
内野・平口の歴史考察(25)
浜松市立平口幼稚園
昭和三十七年、町立新原幼稚園平口分園として発足した。三十八年七月、独立し、平口幼稚園となり、現在に至る。

浜松市立内野幼稚園
昭和三十八年七月、内野神明宮境内にて、新築開園。昭和四十八年四月、内野台に、内野北幼稚園が、分離・開園した。平成二十三年、内野・内野北両幼稚園が合併し、内野小学校隣りに、新らしい内野幼稚園が新築開園し、元の園舎は、私立はなのこ保育園となった。
浜松市立内野北幼稚園
昭和四十八年四月、内野台4丁目に、新築開園した。平成二十三年三月廃園となり、内野幼稚園と合併して、内野小学校南に、新しい内野幼稚園として、再発足した。(山内)

昭和三十七年、町立新原幼稚園平口分園として発足した。三十八年七月、独立し、平口幼稚園となり、現在に至る。
浜松市立内野幼稚園
昭和三十八年七月、内野神明宮境内にて、新築開園。昭和四十八年四月、内野台に、内野北幼稚園が、分離・開園した。平成二十三年、内野・内野北両幼稚園が合併し、内野小学校隣りに、新らしい内野幼稚園が新築開園し、元の園舎は、私立はなのこ保育園となった。
浜松市立内野北幼稚園
昭和四十八年四月、内野台4丁目に、新築開園した。平成二十三年三月廃園となり、内野幼稚園と合併して、内野小学校南に、新しい内野幼稚園として、再発足した。(山内)
2012年03月11日
内野・平口の歴史考察(24)
浜松市立浜名小学校
小野口村が出来たとき、学校も、内田尋常小学校・平貴尋常小学校・小松尋常小学校が一緒になって、浜名小学校の位置に新しく建てられ、小野口尋常小学校を経て、小野口尋常高等小学校となりました。新築された本校舎の大屋根に、一対のシャチ瓦が乗せられていました。この瓦は、永年にわたり、児童たちの健全な成長を見守っていましたが、浜名小学校となり、昭和35年、鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられるとき、おろされて、今は、浜名小学校の玄関に安置されて居ります。

戦争中に、浜名国民学校と名称を変えたこともありますが、二十年の敗戦で元に戻り、二十三年に、学制改革で、高等科が浜名中学となり、初等課の名称も消えて、浜名小学校となりました。昭和58年、生徒数増加のため、内野小学校が分離しました。
浜松市立内野小学校
浜名ニュウタウンの造成による生徒数後が増加したため、昭和58年4月に、浜名小学校から分離独立した。内野台住民の高齢化により、一時期生徒数が減ったが、染地台の開発により、回復し、更に増加している。
内野学校
内野郷学校を引き継ぐ形で、明治六年三月に開設され、本校を内野陣屋跡に置き、小松村・半田村・有玉村に分校が設置された。明治11年に各分校は独立した。内野学校は、明治19年内野尋常小学校となったが、明治二十二年九月、台風により、陣屋跡の建物が倒壊し、内野下の真光寺に移った。明治二十六年半田学校と合併し、内田尋常小学校となった。明治42年、小松・平口・内田、三校が合併し、小野口尋常小学校となる。
平口学校
明治六年,木船新田学校が、木船新田村・長泉寺に開設された、明治八年2月、木船新田学校・平口分校として不動寺に設置され、九月、徳生寺に移る。明治九年平口学校として独立し、明治25年平貴西尋常小学校となった。この頃、平口八幡神社に校舎を新築し移動したが、この校舎は、明治42年、小松・内野三校合併のとき、移築され、使用された。(山内)
小野口村が出来たとき、学校も、内田尋常小学校・平貴尋常小学校・小松尋常小学校が一緒になって、浜名小学校の位置に新しく建てられ、小野口尋常小学校を経て、小野口尋常高等小学校となりました。新築された本校舎の大屋根に、一対のシャチ瓦が乗せられていました。この瓦は、永年にわたり、児童たちの健全な成長を見守っていましたが、浜名小学校となり、昭和35年、鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられるとき、おろされて、今は、浜名小学校の玄関に安置されて居ります。
戦争中に、浜名国民学校と名称を変えたこともありますが、二十年の敗戦で元に戻り、二十三年に、学制改革で、高等科が浜名中学となり、初等課の名称も消えて、浜名小学校となりました。昭和58年、生徒数増加のため、内野小学校が分離しました。
浜松市立内野小学校
浜名ニュウタウンの造成による生徒数後が増加したため、昭和58年4月に、浜名小学校から分離独立した。内野台住民の高齢化により、一時期生徒数が減ったが、染地台の開発により、回復し、更に増加している。
内野学校
内野郷学校を引き継ぐ形で、明治六年三月に開設され、本校を内野陣屋跡に置き、小松村・半田村・有玉村に分校が設置された。明治11年に各分校は独立した。内野学校は、明治19年内野尋常小学校となったが、明治二十二年九月、台風により、陣屋跡の建物が倒壊し、内野下の真光寺に移った。明治二十六年半田学校と合併し、内田尋常小学校となった。明治42年、小松・平口・内田、三校が合併し、小野口尋常小学校となる。
平口学校
明治六年,木船新田学校が、木船新田村・長泉寺に開設された、明治八年2月、木船新田学校・平口分校として不動寺に設置され、九月、徳生寺に移る。明治九年平口学校として独立し、明治25年平貴西尋常小学校となった。この頃、平口八幡神社に校舎を新築し移動したが、この校舎は、明治42年、小松・内野三校合併のとき、移築され、使用された。(山内)
2012年03月05日
無事イベント終了
遠州山辺の道の会 広報/整備担当の酒出です。
3月4日(日)赤佐地区イベント「金刀比羅神社春まつり・御神楽見学」
昨日の雨、そして何時降り出してもおかしくない天候の中
一般参加者31名 会員17名 総勢48名が参加しました。
集合・出発は岩水寺大駐車場「さくらの里」
遠州山辺の道「道しるべ」案内看板に従って西へ
「竜泉寺」で地域とお寺の云われをお聞きし、更に西へ
「金刀比羅神社」を通り過ぎ「高根神社」鳥居へ
「18曲がり」を登ります。小雨はありましたが
「高根神社」へ無事到着
「高根神社」から 木の根道 を経て「金刀比羅神社」へ
「金刀比羅神社」は春まつり お神楽の奉納を見学しました。
甘酒をご馳走になりました。小雨降る生憎のお天気ながら
身体を、心を温めてくれました。
急遽、帰路のコース変更 森林公園を経て「田村神社」へ
先日の奉仕活動で整備した「将軍塚古墳」の見学
雨も連続的に降り始め、流れ解散となりました。
事故も無く、イベントを終了 参加者から「次回は?」と、
質問がありましたが、平成23年度は本日のイベントで終了
5月から平成24年度のワークショップが始まり、企画をします。
さあ、皆さんも「遠州山辺の道」を歩いて見ませんか?
そしてメンバーに加わり、ご一緒に活動して見ませんか?
2012年03月03日
内野・平口の歴史考察(23)
小野口村
明治22年(1889)、市町村条例が施行され、小松村・内野村・半田村が一つになって、小野田村が出来ました。村役場は、始め,龍福寺でしたが、その後、龍泉院に移り、後、真光寺に変わり、又、龍福寺にと、内野の寺院を転々としました。理由はわかりませんが、そのようなことも原因の一つでしょうか、明治41年(1908)に、半田が抜け、代わりに平口が入って、小野口村になりました。村役場は、寺院に間借りではなく、今の、浜名小学校の隣に新築されました。村長には、竹内市太郎氏が就任しましたが、この方は、昭和19年まで、36年間、勤められました。現在、浜名小学校に称徳碑が建って居ります。

昭和二十六年に町制施行で村から町に昇格するとき、浜名郡の中心になるとの意気込みで、浜名町と名前を改めました。

浜名町役場跡
昭和三十一年(1956)北浜村・中瀬村・赤佐村・麁玉村と一緒に浜北町となり、38年に浜北市となりましたが、平成の大合併で、浜松市浜北区と変わり、浜名地区と呼ばれるようになりました。(山内)
明治22年(1889)、市町村条例が施行され、小松村・内野村・半田村が一つになって、小野田村が出来ました。村役場は、始め,龍福寺でしたが、その後、龍泉院に移り、後、真光寺に変わり、又、龍福寺にと、内野の寺院を転々としました。理由はわかりませんが、そのようなことも原因の一つでしょうか、明治41年(1908)に、半田が抜け、代わりに平口が入って、小野口村になりました。村役場は、寺院に間借りではなく、今の、浜名小学校の隣に新築されました。村長には、竹内市太郎氏が就任しましたが、この方は、昭和19年まで、36年間、勤められました。現在、浜名小学校に称徳碑が建って居ります。
昭和二十六年に町制施行で村から町に昇格するとき、浜名郡の中心になるとの意気込みで、浜名町と名前を改めました。
昭和三十一年(1956)北浜村・中瀬村・赤佐村・麁玉村と一緒に浜北町となり、38年に浜北市となりましたが、平成の大合併で、浜松市浜北区と変わり、浜名地区と呼ばれるようになりました。(山内)
2012年03月02日
金刀比羅神社春まつり
遠州山辺の道の会 広報/整備担当の酒出です。
3月4日(日)は、赤佐地区のイベント開催日です。
金刀比羅神社の春まつり お神楽の見学が出来ます。
9:00岩水寺大駐車場「さくらの里」集合・出発です。
~根堅遺跡(浜北人)~竜泉寺~高根神社~金刀比羅神社
平成23年度最終のイベントになります。 4月からは
新年度の企画に入りますので、是非ご参加下さい。
さあ、貴方も「遠州山辺の道」を歩いて見ませんか
2012年02月25日
内野・平口の歴史考察(22)
三方原の開墾
明治維新までの長い期間、三方原台地は非農耕地として放置されていた。一つは勿論、石交じりの痩せ地で、なおかつ水の便の極端に悪いため、農地として向かないと言うことであるが、それ以上に、台地周辺の25にも及ぶ村々の入会地とされていた事が大きい理由である。何度も、部分的な新田開発は試みられたが、他村の反対に会い、実行はされなかった。反対の理由は、山野・荒地ではあっても、枯れ木・枯れ枝は燃料に、草や木の葉は腐食させ肥料になるなど、非農耕地とは言え、農耕にも生活にも必要な土地であったためである。又一方では、生産物と人口バランスとの兼ね合いもあったと思われる。この地方が、裕福とはいえないまでも恵まれていたと言うことでもあろう。
徳川幕臣の入植
明治維新により、静岡藩40万石に減俸された徳川家の家臣たちは、自給自足をせざるを得なくなり、牧之原や三方原で、開拓に従事した。内野の八丁谷にも、八王子千人隊の士族が入植した。牧之原は今に残る大茶園の開拓に成功し、三方原も百里園はそれなりの成果を収めたが、八丁谷は、土より石の方が多い赤土の痩せ地、竹・雑木雑草の生い茂る一際条件の悪い土地だった。刀持つ手を鋤鍬に変え、慣れぬ作業に精出したが、一向に上がらぬ成果。悪戦苦闘10年余。次第に脱落する者が増え、ここでの開墾は無に帰した。染地川調整池畔の豊川稲荷神社と、正寿院に残された僅かな遺物だけが、血と汗の後を今に伝えている。

なお、三方原百里園に、扶持米として、一日一人、玄米5合が、支給されたと伝えられている。衣食住全てを是でまかなうのだから、厳しさが思いやられる。
開拓記念碑1
内野陣屋の跡を北に行くと、横田輪業の角に、秋葉灯篭と並んで小さな石碑が建っている。

明治36年(1903)11月に建てられたもので、碑文によれば、横田・大村・沢木・中道・太田の諸氏が、荒地を開拓し、菜種・桑・茶などの栽培に成功したことの顕彰碑である。
代々この地に暮らした人たちでさえ、やっと成し遂げた事業が、士族の手に負えなかったのも当然かもしれない。
開墾記念碑2
万葉の森公園正門の向かい、植え込みの中に建っている。明治二十年から大正十五年に掛けて、数度に渡り下賜された荒地を、開墾した記念碑である。

開墾記念碑3
不動寺の一番下、墓地隣りに、足立伊助氏顕彰碑などと共に、建てられている。建立年月は、昭和十五年と記されている。

三基の碑から、維新の後継続して、開拓が続けられてきたことがわかる。
昭和二十年の終戦の後、満州から引き上げてきた人たちが、三方原の開拓に入り、東三方町の元をなすなど、三方原用水の完成とともに、努力は肥沃な農地への改変を見せ、今や、お茶や、桑・菜種などではなく、大根・キャベツ・みかん・なしなどの産地となっている。(山内)
明治維新までの長い期間、三方原台地は非農耕地として放置されていた。一つは勿論、石交じりの痩せ地で、なおかつ水の便の極端に悪いため、農地として向かないと言うことであるが、それ以上に、台地周辺の25にも及ぶ村々の入会地とされていた事が大きい理由である。何度も、部分的な新田開発は試みられたが、他村の反対に会い、実行はされなかった。反対の理由は、山野・荒地ではあっても、枯れ木・枯れ枝は燃料に、草や木の葉は腐食させ肥料になるなど、非農耕地とは言え、農耕にも生活にも必要な土地であったためである。又一方では、生産物と人口バランスとの兼ね合いもあったと思われる。この地方が、裕福とはいえないまでも恵まれていたと言うことでもあろう。
徳川幕臣の入植
明治維新により、静岡藩40万石に減俸された徳川家の家臣たちは、自給自足をせざるを得なくなり、牧之原や三方原で、開拓に従事した。内野の八丁谷にも、八王子千人隊の士族が入植した。牧之原は今に残る大茶園の開拓に成功し、三方原も百里園はそれなりの成果を収めたが、八丁谷は、土より石の方が多い赤土の痩せ地、竹・雑木雑草の生い茂る一際条件の悪い土地だった。刀持つ手を鋤鍬に変え、慣れぬ作業に精出したが、一向に上がらぬ成果。悪戦苦闘10年余。次第に脱落する者が増え、ここでの開墾は無に帰した。染地川調整池畔の豊川稲荷神社と、正寿院に残された僅かな遺物だけが、血と汗の後を今に伝えている。
なお、三方原百里園に、扶持米として、一日一人、玄米5合が、支給されたと伝えられている。衣食住全てを是でまかなうのだから、厳しさが思いやられる。
開拓記念碑1
内野陣屋の跡を北に行くと、横田輪業の角に、秋葉灯篭と並んで小さな石碑が建っている。

明治36年(1903)11月に建てられたもので、碑文によれば、横田・大村・沢木・中道・太田の諸氏が、荒地を開拓し、菜種・桑・茶などの栽培に成功したことの顕彰碑である。
代々この地に暮らした人たちでさえ、やっと成し遂げた事業が、士族の手に負えなかったのも当然かもしれない。
開墾記念碑2
万葉の森公園正門の向かい、植え込みの中に建っている。明治二十年から大正十五年に掛けて、数度に渡り下賜された荒地を、開墾した記念碑である。
開墾記念碑3
不動寺の一番下、墓地隣りに、足立伊助氏顕彰碑などと共に、建てられている。建立年月は、昭和十五年と記されている。
三基の碑から、維新の後継続して、開拓が続けられてきたことがわかる。
昭和二十年の終戦の後、満州から引き上げてきた人たちが、三方原の開拓に入り、東三方町の元をなすなど、三方原用水の完成とともに、努力は肥沃な農地への改変を見せ、今や、お茶や、桑・菜種などではなく、大根・キャベツ・みかん・なしなどの産地となっている。(山内)
2012年02月19日
3月のイベントのご案内
遠州山辺の道の会 広報/整備担当の酒出です。
3月4日(日)「金刀比羅神社 春まつり 御神楽見学」が
開催されます。 9時に「岩水寺さくらの里」(大駐車場)集合
竜泉寺~高根神社~金刀比羅神社を歩きます。
当日は「金刀比羅神社春まつり」で、「御神楽」を見学します。
基本的な締め切りは済みましたが、ご希望の方は是非お申し込み
下さい。 (浜北区まちづくり推進課:053-586-6201)
さあ、遠州山辺の道を歩いて見ませんか?
2012年02月18日
内野・平口の歴史考察(21)
横田家について
現存するお宅のことであるので、論評は避け、資料で、眼にすることのみを列挙する。
不動寺に松尾芭蕉の句碑を建てた「雪の県連」の主催は、横田甘仙(守静)である。
龍泉院に“白薗翁之碣”と言う横田白薗翁を称える碑がある。建立は嫡孫保・書は曾孫康治。特筆すべきは、従三位伯爵勝安房題額とあること。
横田保は、三方原の百里園経営にも関与し、通った道が「たもつみち」と呼ばれ残って居り・その功績は三方原神社の石碑に記されている。

三方原神社の石碑
小野田村初代村長は、横田茂兵衛が勤めた。
横田保は、明治初年、近隣の村々に呼びかけ、内野郷学校を発足させた。など(山内)
現存するお宅のことであるので、論評は避け、資料で、眼にすることのみを列挙する。
不動寺に松尾芭蕉の句碑を建てた「雪の県連」の主催は、横田甘仙(守静)である。
龍泉院に“白薗翁之碣”と言う横田白薗翁を称える碑がある。建立は嫡孫保・書は曾孫康治。特筆すべきは、従三位伯爵勝安房題額とあること。
横田保は、三方原の百里園経営にも関与し、通った道が「たもつみち」と呼ばれ残って居り・その功績は三方原神社の石碑に記されている。
小野田村初代村長は、横田茂兵衛が勤めた。
横田保は、明治初年、近隣の村々に呼びかけ、内野郷学校を発足させた。など(山内)


